祇園祭の歴史“ひと口メモ”

◆鉾の車輪は何年くらい使うのですか

平成20年4月26日
 地下鉄四条駅(北側改札内)に展示されている長刀鉾の車輪の説明によると「文政13年(1830)より昭和54年(1979)まで150年の長きにわたって使用された」とあります。
 他方、昭和54年に長刀鉾・車方の堺米造氏の談に「現在の車輪は明治18年から3回の修理跡がある」「大正年間に修理している」という報道があります。この談から現代のアスファルトは、それまでの路地道に比べ、木製車輪の摩耗が大きいことがわかります。

◆鉾の木材は何年くらい使うのですか

平成20年4月26日
 鉾で一番大きくフレームに相当する部分の木材、すなわち“石持”について、平成20年のお祭りで鶏鉾の関係者に聞きますと、「松の木に含まれる油分は200年持つ」ということです。ですから、木材の寿命は200くらいということになります。
 実際には火災に遭っていますから、200年は使っていないと思います。

◆祇園祭で死亡事故というのはあったのでしょうか?

平成19年10月28日
 資料によると2件あります。
 ひとつが「文化5年(1808年)車掛の時、月鉾の囃子方の子供が墜ち、車にひかれて即死」とあり、
 もう1件は「明治5年(1872年)函谷鉾、帰途烏丸通仏光寺上るで、猪熊仏光寺佐官某の雇人臼井松之助を鉾で轢き、3日目に死亡した」とあります。この事故では、けがをしたのは腕との説もあり、現在の医療水準では死亡に至らなかったと考えられます。
 なお、函谷鉾では現在も墓参を継続していると聞いています。
 ( 「 」の出典:改訂近世祇園祭山鉾巡行史、著:福井秀一、発行:祇園祭山鉾連合会)

◆町家を守る・・・長刀鉾のおはなし

平成19年10月19日
 町家を守るにはいろいろな困難がついてまわるものです。そのひとつとして長刀鉾の例をご紹介します。なお、ここに記載した年月日や金額は、わたしの記憶によるところが多いので、間違っているかもしれません。

 長刀鉾の町家は早くから老朽化が懸念されていました。わたしも昭和50年代中頃には長刀鉾関係者より心配する声を聞いていました。柱が素人目に見ても傾いていたり、柱の根っこが腐って浮いていたそうです。町家は2階囃子(いわば囃子(はやし)の練習)の時など、50人以上もの人たちが2階に集まりますので安全性が心配されることになりました。
 そのうち、昭和62年(1987年)、2階の軒桁(梁)が折れるという事故が起こりました。幸いけが人はなかったようです。補修には125万円を要しました。
 長刀鉾保存会は建物の解体・新築を考えました。しかし1階にテナントが2件(食堂とブティック)入居しており、建物を一度解体するには、退去していただかねばなりません。しかし、この交渉はうまく進みませんでした。平成2年11月にはテナントの1件から「立ち退き料33億円、営業補償費1億3700万円など」を求める内容証明郵便が長刀鉾保存会に届きました。わたしには、家賃(食堂が年間39万6000円(月額33,000円)、ブティックは年間30万円(月額25,000円))や食堂の所得(昭和63年から平成3年末までの年収(所得申告額)は平均、約357万円程度)を考えると、べらぼうに高額な要求に思えます。
 関係4者(京都府文化財保護課、京都市文化財保護課、祇園祭山鉾連合会、長刀鉾保存会)は協議を重ね、老朽化の程度について専門家(財団法人建築研究協会)に調査を依頼することになりました。平成3年(1991年)4月の調査報告は「建築以来110余年を経過し、柱の傾斜や不同沈下が認められることにより、耐用年数はすでに経過し、危険な状況であるものと認められる」とありました。
 平成3年5月27日、関係4者の協議で、町家の使用禁止が決まりました。これは2階囃子などで大勢の人が2階に上がった場合の崩落等の事故を懸念したものでした。これにより今年から祇園祭のときに町家が使えないことになりました。
 テナントとの話し合いのため、長刀鉾保存会は平成3年7月9日に京都簡易裁判所へ調停を申し立てました。しかし、調停は不調に終わりました。そこで長刀鉾保存会は平成4年4月30日に京都地方裁判所へ民事訴訟を起こしました。一審判決は平成7年3月28日でした。しかし、被告(テナント側)は判決を不服として控訴しました。二審(大阪高等裁判所)は平成9年11月5日に結審しました。このときテナントの1件は和解しましたが、残る1件は最高裁判所へ上告しました。けれども上告は却下されました。こうして、長刀鉾保存会は、テナントに立ち退き料を支払うことで、建物はテナント側から長刀鉾保存会へ平成10年12月1日に明け渡されました。7年半の戦いにようやく終止符が打たれました。
 裁判中は、外部の過激な集団の人達が、いろいろ高圧的ないやがらせを仕掛けてくることもあったそうです。当時の長刀鉾保存会の廣瀬和一郎理事長は「何事もなく平穏な時代、良き時にはやるが難しくなれば逃げようとする愚かな人物も世の中にはいるもののようです。こうした人達に聞かせたいことは『世の中で、“正が負けて邪が勝つ”ということがあってはならない』ということです」と言っています。
 そのほか廣瀬和一郎(当時の)理事長のことばの中に「公共物件(町家のこと)を預かっている」とか「祇園祭は、善良なる市民の奉仕活動によって成り立つもの」、あるいは「(祇園祭りを)末永く継承発展させることは現代に生きる者の責務」といったものがあります。
 現に祇園祭りに関わる私たちは、こうした先人たちの心をしっかりと学び、祇園祭を次の世代に継承発展するための努力を怠ってはならないと考えています。

◆町家を巡る経緯について

平成19年10月14日
 表記について、もう少し詳しく説明してほしい、との要望がありました。
 山鉾町の多くは江戸時代から町家(ちょういえ)という集会所と土蔵(山鉾を収蔵する倉庫)を持っていました。江戸時代は町内に住んでいる人のうち、家持ち(かもち)だけが、町内会を組織し、一定の自治権をもっていました。山鉾の維持や巡行にかかわるのは、家持ちに限られてました。
 明治31年に京都市が市制となり、町内の自治権がなくなることになりました。町家もそのまま放置すると、町内の所有権がなくなることになりました。そこで、町内は町家の所有権を町内に在住する数人の共有名義とするか、あるいは『町中持ち(ちょうじゅうもち)』として登記しました。このことは町家という祇園祭を維持するための基本財産が、制度上は個人名義になることを意味しました。ただ、名義として使用した個人名は、いわば便宜上のものでした。所有権を得た個人は、得ることに対して対価を払ったわけではありませんでした。
 大正時代に入ると、山鉾の所有権の明確化と管理体制の安定化を主な目的として、財団法人化することが検討されはじめました。町家や山鉾を財団法人の所有にするのです。一旦個人名義になった町家の所有権を財団法人に移すのですから、名義に使っていた個人の承諾が必要になります。ただ、昭和20年までは財団法人の申請手続きは京都府庁ではできず、東京(文部省)まで行く必要がありました。当時、東京へ行くには、特急に乗っても丸1日かかるわけですし、申請手続きそのものも、類例が少ないこともあり大変難しかったそうです。
 結局、大正時代に財団法人の認可を得たのは放下鉾(大正11年11月認可)のみでした。
 白楽天山の場合、放下鉾町の村田五兵衛氏のご指導を得て、手続きの調査研究がなされたそうです。
 昭和になると、町家の名義になった人で町外へ引っ越す人が増えてきました。白楽天山は昭和5年に町外に移転した人の分を町内に在住する人へ移動しました。手続きの調査研究をしたからこそ将来の問題点に気づいたといえるでしょう。しかし、多くの保存会はこうした対策を講じませんでした。昭和に入って戦前までに認可を得たのは保昌山(昭和7年6月)と鈴鹿山(昭和13年12月)のふたつだけでした。
 戦後(昭和20年以降)になると、民法が改正され、相続権がそれまでの家督相続(子供のうちの長男などの一人が全財産を相続する)から、子供全員が均等に相続するようになりました。明治30年代に便宜上得た町家の所有権は、世代が変わるごとに、子供の数だけ人数が増えることになりました。
 さらに、終戦直後は、財産税が徴収されたり、あるいは『町家が没収される』というデマが流布しました。そのため、町家を売ってしまった山鉾町もありました。
 ただ、戦後もすぐに財団法人申請への活動は再開され、戦後、第1号の認可は昭和24年10月の八幡山でした。
 白楽天山の場合、鶏鉾(昭和30年6月財団法人認可)町の西村一郎氏のご指導を得て、申請手続きを進め、昭和31年3月に認可を得ました。祇園祭山鉾町の中では6番目になります。
 山鉾町の財団法人申請の動きは昭和30年代中頃から本格化しました。私の父・秀一(ひでいち)もいくつもの山鉾町の申請手続きを手伝ったようです。私自身もよく京都府庁へ書類を持って自転車で使い走りに行かされました。現在でもいくつかの保存会の方から「うちの保存会が今あるのは秀一さんおかげや」と言っていただけます。
 申請手続きそのものは、こうしたノウハウの伝授や和文タイプライタの使用という機械化によって随分緩和されました。しかし町家の所有権の問題は、時代が進むに従って大きな壁となりました。
 明治30年代に便宜上個人に移った町家の所有権は、当時の方から子供、孫へと代替わりが進み、権利のある人が飛躍的に増えていました。保存会の役員は戸籍を調べ、子供や孫など、法律上権利のある人、全員の承諾を得なければなりません。手紙をしたため、あるいは訪問し、承諾を求めることになります。京都周辺の方は「祇園祭」とか「山鉾」と言うと何のことかすぐにわかるので話は早いのですが、地方に在住される方になると、「祇園祭って何のこと?」「山って何メートルくらいの高さ?」等の質問など、基本的な説明から始めねばなりません。また、自分に町家の権利があることを保存会からの連絡で初めて知った場合も多く、さらに自分のご先祖が京都に住んでいたことそのものを知らないとか、(土地の所有権を移動するために印鑑証明をもらいますので)何かの詐欺に使われるのでは?という疑念を抱かれたりと、苦労は絶えなかったようです。ただ、多くの方は好意的にご協力いただき、中には「うちの親戚の承諾は、おれが全部まとめてとってくるから書類を全部置いておけ」という方までありました。しかしながら、少数の方は権利を主張され、金銭を求められました。どうしても承諾いただけない方へは民事裁判を提訴することになります。裁判は和解になり、保存会は金銭を支払うことになります。ただ、支払う原資は和解の時に町内に在住する人たちの寄付金しかありません。ですから、当然、和解をした保存会役員へは、町内に在住するひとからは非難(不満)の声があがります。最大の理由は、もともと金銭を払って得た権利ではないからです。ほかに無償で承諾いただいた方に対して申し訳ない、という理由もあります。
 現在の祇園祭はこうした先人たちの苦労の上にあることを、わたしたちは忘れてはならないと思います。

◆なぜ、戦後(昭和20年以降)に財団法人化するのが難しくなったか

平成19年9月20日
 戦後、民法の改正により、親の財産を相続する場合、子供全てが均等に相続するようになりました。(戦前は家督相続により、たとえば長男のように、子供のうちひとりが親の財産全てを相続しました。)
 山や鉾の保存会を財団法人化する場合、町家(ちょういえ)の名義を保存会の名義にしますので、それまで複数の個人名で登記されていた所有権を移動しなければなりません。これには、それまで所有していた人の承諾が必要になります。親が健在の場合は、その人ひとりの承諾だけで済みますが、その方が亡くなると、その子供全員の承諾が必要になります。
 そこで、保存会役員は、戸籍を調べ、相続権のあるひと、全員の承諾を求め、全国を走り回ることになります。多くの場合、親からそのような権利があることを知らされていませんので、保存会からの連絡で初めて知ることになります。ほとんどの方は喜んで承諾していただけるのですが、中には権利を主張し、あるいは金銭を要求される方もあります。話し合いがつかないときは、保存会は民事裁判を起こさねばなりません。裁判は和解になり、結局保存会は権利のある方に金銭を支払うことになります。ただ、この支払う原資は、その時に町内に住んでいる人たちの寄付金しかありません。ですから、裁判費用にせよ、和解金にせよ、数十万円の負担であっても、住人にとっては大変重い負担となりました。
 平成19年現在、最後に財団法人の認可を得たのは昭和62年(1987年)7月10日の黒主山ですが、黒主山も裁判を経験しました。私の父・秀一も財団設立の事務手続きには関わっていたようで、最後のひとり(正確に言うと本当の最後は2人だった)の話し合いが成立し、黒主山保存会の町家の土地所有分が『持ち分全部』となったのは平成7年(1995年)12月13日でした。この時は、父も大変喜び「黒主山の役員さんは涙をながして喜んでおられた」と話していました。この『涙をながして喜んだ』というのは、決して比喩ではないようです。
 ちなみに父・秀一は、「黒主山の別の役員(誰だったか私は忘れましたが、たぶん現・祇園祭山鉾連合会会長の深見氏)が「全権利の取得に10年かかりましたよ」と誇らしげに言うので「長刀鉾は20年かかった。10年くらいで自慢するな」と言ってやった」、と笑って私に話してくれました。

◆宵山での夜店(よみせ・露天商のこと)はいつからか?

平成19年5月9日
 明確な記録はありません。ただ、戦前の昭和18年(1943年)にはすでにあったようです。ある人生の先輩から聞いた話ですが、その人の昭和18年の日記に「友人Yとパチンコをした」と書いているそうです。このYさんは現在、一流商社の会長です。本人曰く「当時、夜店でパチンコをする子供は不良少年ではないか」とのことです。
 この不良少年はだれか!・・・というと、現・祇園祭山鉾連合会の深見茂理事長であることは、口が裂けても言えません。

◆名を残す(四条傘鉾のお話し)

平成19年5月9日
 四条傘鉾は昭和63年(1988年)から巡行に参加していますが、明治4年(1871年)の巡行以来100年あまりを経た復帰となります。
 わたしの記憶によると、昭和50年(1975年)ころから再興を主唱したのが、当時同町北側の東から2件目にあった京都相互銀行(社長・笠松齋氏、のちの京都共栄銀行)です。わたしが聞いている範囲では同行が施主(主にお金が出したという意味)にあたります。
 同行はその後、なくなりましたが、その名は四条傘鉾を通してわたしの記憶に残っています。(参考文献・山町鉾町第24号、祇園祭山鉾連合会、昭和64年2月1日発行)

◆平成8年(1996年)よりくじ取りの時に担山(かつぎやま)とは別に傘鉾だけでくじをとるようになったのはなぜか?

平成19年4月4日
 傘鉾の囃子(はやし)は従来の鉾の囃子と調子が異なり、巡行中に両方が聞こえてくると聞きづらいとの意見があった。そこで祇園祭山鉾連合会で協議し、両方の囃子が同時に聞こえにくくするために、鉾と傘鉾の間に担山(かつぎやま)を入れることになった。そのために傘鉾の位置を全体の巡行順の中で固定し、2つの傘鉾だけでくじを引くようになった。

◆昭和52年(1977年)巡行路終点が御池通の烏丸(からすま)通から新町通に延長された理由は?

平成18年12月29日
 京都市観光協会から、売上げを増やすために観覧席の席数を増やしたいとの要望があり、祇園祭山鉾連合会がこれに応えたから。

◆平成2年(1990年)四条傘鉾が巡行に参加しなかった理由は?

平成18年12月27日
 私の記憶によると、四条傘鉾保存会理事長の死亡により、諸般の段取りができないと保存会が判断し巡行に参加しなかった。

◆昭和37年(1962年)、巡行は全部中止になりましたが、結論に至る経緯は?

平成18年12月27日
 当時の記憶と京都新聞の記事をふり返ると

◆昭和41年(1966年)鈴鹿山が巡行に参加していないのはなぜ?

平成18年12月26日
 当時、私が聞いた話では、この年より、あとの祭りは昨年までの24日の巡行をとりやめ、17日に先の祭りと同時に巡行することとなった。この決定に抗議し、居祭りをした。
 なお、祇園祭山鉾連合会はこの行動に対して、特段の対応はなかった。処分などの検討については議題にすらなっていない。他の山鉾町からも非難めいた声は出ていない。各々の保存会の独立性を示す事例といえる。
 居祭り=山を建て、宵山も行うが、巡行だけはしないこと

◆上杉本洛中洛外図屏風の書籍は?

平成18年12月23日
 解説書が出版されています。 書名:洛中洛外図屏風を見る 発行:河出書房出版 定価2000円(税別)ISBN4−309−72492−2
 屏風が大きくきれいに印刷された本 書名:国宝上杉本洛中洛外図屏風 定価:1000円(税込み) 発行:米沢市上杉博物館(おそらく郵送での購入が可能です。問い合わせ先 財団法人米沢市文化振興財団 電話0238−26−8000)

◆上杉本洛中洛外図屏風が見たい

平成18年12月23日
 上杉本洛中洛外図屏風は白楽天山が描かれた絵画の中では現存する最古のものです。
 山形県米沢市の上杉神社横にある米沢市上杉博物館でレプリカが見られます(おそらく常展)。オリジナルは平成7年に国宝に指定されました。
 米沢市上杉博物館 山形県米沢市丸の内1−2−1 電話0238−26−8001
 開館時間 朝9時〜夕刻5時(入館は4時30分まで)入館料:一般400円 休館日あり、ホームページ参照 

◆布袋山(ほていやま)ってどんな山?

平成18年12月23日
 明応9年(1500年)6月6日『祇園会山鉾次第以鬮定之間』に先の祭りに布袋山の名と現在の所在が記されています。
 宵山で町内に掲げられる木札によると、「天明8年(1788年)の大火で消失」「慶長(1596年〜1615年)以来祇園会に加わって巡行した曳山(ひきやま)」「宝暦(1751年〜1764年)以後は飾り山として行列に参加しなかった」とあります。
 屏風や障壁画などの絵は発見されていません。ですからどのような外観であったのかはわかりません。

◆宵山にちまきを売るようになったのはいつから?

平成18年10月5日
戦後です。昭和22年からと思われます。明確な記録はありません。

◆長刀鉾の稚児による注連縄(しめなわ)切りはいつから行われているか?

平成18年10月5日
 はっきりしたことはわかりません。昭和37年(1962年)6月の京都新聞に、長刀鉾神事係の谷野氏の発言として「数年前からはじめたもので」とあるので、昭和30年前後になってからと考えられます。私も以前、古老の話として「稚児による注連縄切りは戦前はなかった」と聞いたことがあります。 また、古老の談として「昭和31年から」との証言が得られました。

◆2番目に古い写真は?

平成18年10月5日
 この質問は、ほとんど回答者いじめのような気もしますが・・・
 明治12年(1879年)11月16日に山鉾が御所行った帰り、すなわち17日に撮影された写真で、勧業場から写したとされる放下鉾と、その後ろに見える岩戸山の写真。版権はPPS通信社が所有しています。わたしはこの写真の存在を平成17年12月、ある週刊誌に掲載されてはじめて知りました。放下鉾は屋根に花飾りを付けています。鉾に出し花(花飾り)がついている写真は2枚しか残っていませんが、そのうちの1枚だと思います。

◆巡行順がわかっている最も古い年はいつ?

平成18年9月11日
 先の祭りで、全体の巡行順が判明している最古は享保19年(1734年)です。あとの祭りで全体の巡行順が判明している最古は文化11年(1814年)です。部分的にわかる最古のくじ順は白楽天山の慶長7年(1602年)で11番です。

◆山鉾で最も古い“絵”はいつのもの?

平成18年9月11日
 現代の祇園祭の起源というべき明応9年(1500年)以降に限定すると、祇園祭全体では私もわかりませんが、白楽天山に関しては、山形県上杉神社に所蔵されている屏風(上杉本洛中洛外図屏風)です。天正2年(1574年)に織田信長が上杉謙信に贈ったもので、狩野永徳の筆によるものとされ、1550年代より1560年代はじめの京都の風景を描写していると考えられています。

◆後の祭りで北観音山が先頭になったのはいつから?

平成18年9月11日
 明治5年(1872年)からです。理由は、この年から参加する山が7基となり、巡行がさみしくなったからではないかと推測されています。

◆橋弁慶山が“くじとらず”になったのはいつ? なぜ?

平成18年9月11日
 古文書『祇園社記 第十五』(八坂神社所蔵)に明応9年(1500年)、『先規より相定訖』と註釈が附記され、すでに“くじとらず”で先頭であったことがわかります。理由はわかりません。

◆鉾の屋根方はいつからか?

平成18年9月11日
 明確な記録はありません。連合会写真集で見る限り、屋根方が写っている写真は“明治中期”と表示された写真で1枚だけありますが、撮影年代が明確な写真で最も古いものは明治39年(1906年)の放下鉾です。ですから、明治30年代の後半と考えていいでしょう。

◆祇園祭最古の写真は?

平成18年9月10日
 明治12年(1879年)11月16日、ドイツ皇孫入洛を機に山鉾27基が御所に参入した時の写真。なお、この年はコレラ流行のため山鉾巡行は先祭りは11月7日、後の祭りは11月14日に延期された。(出展:写真記録祇園祭、昭和57年6月1日発行、発行:祇園祭山鉾連合会、略称:連合会写真集)

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