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白楽天山の、まだ話したことのない“おはなし”



「白楽天山のホームページなのに白楽天山のことは、ひとことも書いてないじゃないか」との“おしかり”に応え、私の父(故人)から聞いた記録に残らないおはなしを書きます。

なお、ここで言う「私」とは、平成19年現在白楽天山保存会理事を務めている、福井貫二のことを示します。

◆町家を守るために

平成19年9月18日
 白楽天山の町家(ちょういえ)にはテナントが入居していました。昭和26年にこのテナント(会社)が倒産し、結局ヤクザが店舗(町家)を占拠することになりました。裁判になり、一度は和解が成立しましたが、昭和32年3月に再度、裁判が始まりました。
 昭和35年(1960年)、K検事(実名は聞いていますが、ここでは伏せておきます。この検事は後に検事長になるほど大変立派な方だったようです)に「30万円ののきしろ(立ち退き料)を出せ、相手はヤクザだ」「現在の警察にはヤクザのような集団暴力を押さえる力はない」と言われ、父は「やむを得ず30万円ののきしろを払った」と言っていました。「もともとは倒産にからむ不法占拠で始まった事案だけに、たいへん悔しい思いをした」とも言っていました。

◆“防虫剤”のおはなし

平成18年7月24日

 第2次世界大戦のために昭和17年の巡行を最後に、祇園祭は全面中止となりました。白楽天山も土蔵に目塗を施し密閉しました。

 戦後、昭和22年、長刀鉾と月鉾が建てられ、白楽天山も人形と見送りの観覧を行いました。さて、収蔵しようとしたとき、大変困った問題に直面しました。防虫剤がないのです。当時は物資欠乏の時代で、防虫剤は“モノ”が無かったようです。値段の問題ではありません。父は「おそらく戦後はまだ生産が再開されていなかったのではないか? あるとすれば戦前の在庫で、貴重品だったようだ」と話していました。そこで「どうしたのか」と聞きますと、「西川さんという方が『どうぞ使ってください』と申し出てこられて、たいへん助かった」と話していました。「西川さんとは全く面識のない人だった。どうやら大学の先生からの聞きづてらしい」とのこと。この西川さんとは河原町通荒神口にある西川薬局のご主人で、父はこれ以来、白楽天山の収蔵に使用する防虫剤を、西川薬局から買っていました。

 父の死後、平成11年に私が理事長になりましたが、わたしも西川薬局から防虫剤を買っています。といっても、特殊な物ではなく、どこにでも売っているごく普通の防虫剤です。

 『たかが防虫剤のために、わざわざ河原町荒神口まで行くのか』と思われるでしょうが、実は法務局へ行ったついでに寄っているのです。近ごろは西川さんのおばあちゃん(当時の奥様)のお元気なようすを知ることが私のささやかなたのしみです。

◆“ちまき売りの歌”はだれが作ったのか?

平成18年7月24日

 このwebページに音声で再生している“ちまき売りの歌”は昭和27年にできました。

 私が父から聞いた話、「戦後、宵山でちまきを参詣者に授与するさいに、このような“わらべうた”はすでに占出山や霰天神山にあり、これに習って主に占出山のものを参考にして作った」とのこと。つまり、作詞・作曲は私の父・秀一(ひでいち)でした。

 ただし、語り継ぎで先輩の子供から後輩の子供に教えるわけですから、旋律の一部『常はでません』の部分は、私が覚えた昭和40年ころには作曲者自身のものと少し変化していました。語り継ぎと共に洗練されていくのでしょう。

◆次の世代のために

平成19年5月9日

 白楽天山保存会が財団法人になったのは昭和31年(1956年)3月22日です。私の父・秀一(ひでいち)が設立のための諸手続をしました。祇園祭の山鉾のなかでは早いほうです。ではなぜ、早くできたのか? それは一番手間のかかる作業を私の祖父・半次郎(はんじろう)が済ませていたからです。
 大正時代、すでに財団法人化の動きは一部の山鉾保存会にありました。しかし、当時は財団法人化のための手続きは京都府庁ではできず、東京まで行く必要がありました。このころ、東京へ行くには特急でも丸1日かかりました。そのほか、手続きには現在では考えられないほど膨大な労力が必要でした。
 しかし、手続きで最も困難なことは町家(ちょういえ)の所有者の同意を得ることでした。このことを理解していただくには、少し歴史の説明が必要です。
 明治31年(1898年)に京都市制が施行されるまでは、町家は町内の共有財産でした。しかし市制施行により町家という不動産の権利を喪失することになりました。そこで町内は、町内の有力者の個人名(多くの場合は数名・白楽天山の場合は10名)、または町中持ち(ちょうじゅうもち)として登記しました。このことは、町家という祇園祭を支える基本財産が、個人の所有になることを意味しました。ただ、戦前はこれでも大きな問題は起きませんでした。なぜなら、相続が発生しても、家督相続により、相続人が増えなかったからです。それでも、町外に移転する人もありました。財団法人設立のためには、町家という不動産を財団法人の名義にしますので、これら個人の所有権を放棄してもらう必要があります。
 そこで私の祖父・半次郎は昭和5年(1930年)に町家の所有権で、町外に住む人の分を、町内に在住する人へ移動しました。このことは、25年を経た次の世代の財団法人化の手続きを、大いに助けました。なぜなら、町内に住む人の同意を得るだけで、財団法人化の手続きができたからです。

◆大火から財産を守る工夫

平成19年5月22日
 元治元年(1864年)の禁門の変(俗にいう鉄砲焼)で、市内の多くは火災に飲み込まれました。ただ、わが家の仏壇は2百数十年程度前のものだそうです。ではなぜ仏壇は、この鉄砲焼から難を逃れたのでしょうか? 私の父が親から聞いた話では、「仏壇は井戸にちゅうずりにしてから家財を大八車に載せて逃げた」そうです。わたしは、「仏壇とは逃げるときに便利だったんだ・・・」と仏壇の効能をこの話を聞いて初めて知りました。